高坂弾正忠昌信
名前 幼名・春日源助、元服して源五郎。士大将となり春日弾正忠昌信(昌宣・昌忠とも)へ。海津城代となり香坂(高坂)弾正忠虎綱に。間もなく春日姓に戻り春日弾正忠虎綱となる。高坂弾正と言う名は俗称。
家紋 十六枚菊・丸ノ内三引軸(甲鑑戦跡紀行)
初陣 よく分からないが、武田に仕えて間もない諏訪攻めに参加したのではないか。
役職 奥近習(16歳)~使い番12人衆に名を連ねる
天文21年・1552年(26歳)小岩岳城攻略の手柄により50騎の士大将になり弾正忠を名乗る。同年100騎加増・150騎を預かる。
主な戦歴 小岩岳城攻め・雨飾城攻め・第四回川中島合戦・箕輪攻め・
二俣城攻め・三方ヶ原合戦・野田城攻め
赴任地 小諸城(天文22・1553)→雨飾城(弘治2・1556)→海津城(永録2・1559)
死因 病死。胸の病というのが定説だが?享年52歳
命日 天正6年・1578年5月7日(同11日、6月14日説もあり)
墓所 長野県・松代町『明徳寺』/山梨県・塩山市『恵林寺』
法名 保雲椿公禅定門
戒名 憲徳院玄菴道忠居士
1527~1578。武田軍の兵糧係の頭領だった石和の豪農・春日大隈の子。春日源助と名乗っていた16歳の時姉婿と土地のことで訴訟を起こし、その公事の場で、父・信虎を追放し、武田の当主になったばかりの武田晴信に見初められる。公事には負けるが武田家への仕官が決まり、20日のうちに主君の一番近くに仕える奥近習に抜擢される。大変な美童で、晴信の寵愛も相当深かったと思われる。その証拠に源助に浮気を詫びた『誓詞』が今も東大の史料編纂所に現存している。
しかし、源助は主君の寵愛に甘えることなく修行を積み、使い番を経て、26歳の時信州小岩岳城攻略の殊勲者として侍大将に抜擢され、春日弾正となり騎馬150騎を預かるようになる。信州・小諸城代雨飾城代を経て川中島を望む海津城主に。この時、武田に反旗を翻して誅された高坂某の妹を娶り香(高)坂弾正と名を変える。虎綱を名乗ったのもこの頃か。『高坂』の名が、この地を治めるのに都合がイイと考えた訳だが『春日』も同じ信州の名族の名であることが分かり間もなく本姓に復している。
それにしてもこの時が高坂の初婚だとすると33歳…随分遅い結婚である。川中島の戦の際は、妻女山迂回部隊を指揮したと言われている。戦の後、敵味方の区別なく戦死者を葬り、遺品を越後に届けさせたと言う。信玄亡き後殉死を願い出るが一条信龍らに止められ、今度は自分が土屋昌次らの殉死を止める役に回らなければならなかった。設楽が原には越後の押さえのため参戦しなかったが、味方が不利と聞き急遽兵8000を率いて戦場に向かうが、時すでに遅く敗走してきた勝頼一行を測らずも出迎える形になった。
高坂は、一行の武具一式を取り替え、敗戦の見苦しさを感じさせないよう配慮した。しかし、高坂の数々の進言も悉く勝頼に退けられ、苦悩の内に天正6年、5月7日病没する。享年52歳。墓は海津城のある、長野県松代町の明徳寺にあり。関連のある場所
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山本勘助 武田信玄近くの史跡
海津城
長野市松代町。高坂弾正が在城した。しかし地元では真田の『松代城』として知られている。現在復元工事中。
明徳寺
高坂の菩提寺。山門をくぐるとすぐに 看板が立っている。昔、この墓石が「おこり」という病に効く と言われて 砕いて持ち帰る者が多かったという。寺宝には高坂の遺品があると聞いたが…
高坂弾正忠昌信の墓(春日虎綱の墓)
川中島の前線拠点である海津城の城将として活躍し、合戦後、北信濃の経営を担った高坂弾正忠昌信は、天正6年(1578)病没し、彼が再興したと伝えられる明徳寺に葬られた。。
小諸城
小諸市古城。最初に高坂が任された城。山本勘介の縄張り (設計)と言われている。勘介が愛用したと言う 『勘介の鏡石』とかいうものがある。
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